生協について 4

これにたいして、学識経験者を中心に生協の歴史と今日的位置をたずねることから始めた「あり方懇談会」の報告書は、生協がスーパーとは異なった相互扶助の組織体であることを再確認しました。


同時に、今日の一般的な問題点として、ことに


1.生協の基本をなすべき民主的運営の問題

2.中小小売業者との摩擦の問題

この2つの問題をあげました。これにたいして、

1.規模の適正化と民主的運営の徹底

2.出店ならびに員外利用の規制の推進

・・・を提言しました。


この報告書は、生協側には歓迎はされましたが、しかしもちろん十分に満足のいくものではなかったのです。


ことに、人々の生活が大きく転換する今日の変化のなかで、将来にむけて生協が果たすべき役割。


また、消費者の自衛対抗力としてはまだまだ不十分な生協の社会的力量。


そして、大規模小売業者と小規模小売業者との関係とは根本的に異なった生協と、中小小売業者との関係、などに十分な考慮が払われていないことに不満が示されました。


そして、生協攻撃者によって広く非難されてきた競合的出店や員外利用、過小な出資金や過大な広告・宣伝などについては、すでに早くから生協内で自己規制が進められていたところだから、生協批判の多くは生協にとって「ゆえなき」非難と受けとられてきました。

生協について 3

このような一連の生協規制や規制強化の動きにたいして、むろん生協側からは強い反発があります。


組合員の反対運動も進められてきました。


争点は、個々には多岐にわたりますが、つまるところは、相互に結びあう2つの点に帰着します。


第一に「生協はスーパーか」、第2に「生協の役割は終わったか」ということです。


生協攻撃は、生協活動の伸長で揺すぶられる小売業者から生じました。


その場合、小売業者は中小の業者だけとは限りません。


このことは、先の生協包囲網の形成からも明らかですし、当然のことでもあるでしょう。


そしてそのさまざまの攻撃は、要するに、生協は今ではスーパーとどこが違うかという事からくるのです。


生協は専従の従業員によって運営され、誰でもほんのわずかな出資金だけで至極簡単に組合員になれ、生協の店は現実にどんな人でも利用できます。


事実上、スーパーとどこが違うのか。


それにもかかわらず、生協の事業が生協法でもって特別に保護されているのはどうしたことなのか。


いま一歩ゆずって、生協の果たしてきた役割は認めるとしても、これはおかしいでしょう。


生協はもともと貧しく弱い人々が集まってできた組織です。


わが国の生協法にしても、この法は、国民の多くが食うにも事欠いていた敗戦直後に、人々の生活を守るためにできたものです。


事情の一変した今日、生協活動は、立法の精神に背いた「見せかけの生協活こ、生協を「かくれみの」にしたスーパー事業にすぎない・・・というのが基本の論調です。

生協について 2

同年(1986年)の12月に、各種の改善を要望するが法改正の必要は認めない旨の報告書が答申されました。


この間、生協組合員の反対運動も加わって、小売商側委員の全国商店街振興組合連合会理事長は答申のまとまる直前の11月中旬、辞表を提出するという一幕も生じました。


厚生省は、「あり方懇談会」の答申の線にそいながら、事態の改善に法改正ではなくて行政指導の道をとりました。


そして、1987年の6月から7月にかけて、生協の政治的中立の徹底、財務諸表の公開、組合員出資金の増額、関連会社の規制などにかんする通達を各都道府県に出します。


しかし、公権的な生協規制を目ざす生協法改正実現運動は、それで終わったわけではありません。


1987年8月初旬、自民党の「商工こ議員を中心に「生協法改正実現議員連絡協議こが発足し、同協議会は発起人会に、中小小売商総連盟の主要諸団体の首脳のほか、日本商工会議所、日本百貨店協会、日本チェーンストア協会などの代表にも協力をよびかけました。


大規模小売店舗法(大店法)の問題では、敵対関係にあった勢力の糾合も図られて、生協攻撃の包囲網が広げられてきたわけです。


そして同年11月末の全国商工会連合会の全国大会でも、生協規制強化の推進が決議。


1988年6月、自民党税制調査会では、生協にたいする課税強化について、大手生協の基本税率を30%に引き上げる大蔵・厚生両省の当初案で一応の決着を見ました。


しかし、それよりも適用範囲を広げ、税率も37・5%にしようとする自民党商工部会案も、今後の検討問題として残されたのです。

生協について

ここ数年、生協に対する風当たりが急に強くなっています。


小売業者の間にくすぶっていた生協攻撃に火の手があがり、自民党のいわゆる「商工族」議員を動かし、生協の元締めである厚生省も対応を迫られました。


1984年2月、前年の「流通ビジョン」審議のあとをうけて発表された通産大臣の談話のなかで、生協の出店や組合員以外の生協利用(いわゆる員外利用)の問題が取り上げられました。


この動きが、政治問題化してくる皮切りとなったのです。


それを契機に、生協規則の論議がにわかに高まり、生協非難の文書が巷に流れ、法改正の運動も高まってくるようになりました。


自民党の商工部会は小売商業問題小委員会で、生協や農協の購買活動の見直し論議を続けました。


そして、そこで設置された「生協問題に関する特別委員こは、1985年の末、生協活動の大幅な規制を盛り込んだ消費生活協同組合法(生協法)の改正案をまとめ、これを議員立法として提案しようとしたのです。


その直前の1985年11月、厚生省は自民党側から迫られて生協法の抜本的な見直しを約束していました。


このため、翌1986年の2月、厚生大臣の私的諮問機関として、学識経験者に関係諸団体の代表を加えた『生協のあり方に関する懇談会(通称「あり方懇談会」)』が設置され、生協活動を総合的に洗い直す作業が続けられました。

買物帰りにパチンコ その2

"巷に人はあふれ、職も食糧も乏し"かったのです。

そういう世相を同書は「昭和27年」の中に「買物帰りのパチンコ・マニアの主婦達」というキャプションでーページの3分の2ぐらいを占める大きな写真を載せています。

前の『アサヒグラフ』の服装がサッパリしている男性パチンコ客達の写真に比べると、こちらの写真は赤ん坊をおんぶして、買物籠に葉のついた大根が顔を出しているという生活のにおいが溢れています。

しかも、写っている人物は、みんな、生活に忙しそうなおばさん達・・・。

パチンコは、いろいろ生活に必要な景品をとるための大切な"勝負"だったのです。

おんぶされている赤ちゃんは眠っています。

チンジャラの騒音にも目を覚まさないところをみると、お母さんの長勝負に、すっかり疲れて眠りこけているのでしょう。

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買物帰りにパチンコ

昭和30年8月15日、河出書房から『戦後10年 日本人の辿った道 河出新書写真篇17』が発行されました。

その昭和27年の「自立の底に流れるもの 広場の斗争」に、次のようなことが記録されています。

『戦後数年、ようやくにして中国からの在留邦人帰還問題が、中国紅十字会の努力で緒につき、その第一船が舞鶴に帰った。

国敗れて山河のみのこる故国の土を、永きは十幾年ぶりで踏んだ人々の心持ちは、思いみるだに胸が痛い。

しかも故国は決して温い眼では迎えてはくれないのだ。

温く迎えたい心はあっても、巷に人はあふれ、職も食糧も乏しく、結果としてはおそらく、涙と嘆息と憤慨とを贈るにすぎないかもしれないのだ(以下略)』

パチンコ流行の元年 その2

25年という年はパチンコ流行の元年でした。

そして、その証拠を示すように同誌は次の年の「昭和26年」の中で

『パチンコ流行 子どもの遊びだったパチンコが、おとなの娯楽として町にはんらん。

国会でも問題になった』

というキャプションで、1ページの3分の2ぐらいを占めるパチンコ屋風景の、大きな写真を載せています。

パチンコ台の配列や、客の服装がなかなかサッパリとしているところをみると、都心のパチンコ屋を撮ったものでありましょう。

この年がどんな年だったか・・・。

同誌の昭和26年の「世相・風俗・流行」でみると、次のように記録されています。

『"老兵は死なず"の名せりふを残し、マッカーサーが連合軍最高司令官を罷免されて去った。

9月には(中略)"独立"の名を得たわけだ。

民間航空が再開されて日の丸機がとびはじめ、民放がはじまって"CM"が登場した。

前年いったん短くなったスカートは、また伸びてロング・スカートとなる。(以下略)』

パチンコ流行の元年

昭和40年7月20日、朝日新聞社から『アサヒグラフ増刊戦後20年・人と事件』が発行されました。

『これは荒廃した焼土に現在の繁栄が築かれるまでの、戦後20年の事件・風俗・政治・スポーツなどの写真集であり、毎年一人、国の運命をになった人からテレビの人気スターまで、ひろく話題の人物を特集した』

・・・と目次ページにありますように、さまざまな人物や風景などが出てきます。

その昭和25年の「世相.風俗・流行」のところに、次のようなことが記録されています。

『米ソの対立がはげしくなり、6月に朝鮮戦争。

金づまりが一転して"特需景気"。

"金ヘン"がババをきかせはじめ、千円札発行、"社用族"の横行が目にあまるようになった。

"パチンコ"がさかんになったのもこのころだ。(以下略)』

東京一の浅草のパチンコ屋

もう一つの秘蔵記録は、昭和28年3月31日、台東区浅草商店街連合会発行の『商店主ハンドブック』
(同会事務局編集)に収録された"全浅草商店街"のパチンコ屋。

看板を"遊技場"等としたものもありました。

当時、浅草には48の商店街がありました。

蔵前の問屋街(雑貨)、合羽橋の問屋街(飲食店設備)、花川戸の問屋街(履物)、聖天町の問屋街(靴)などなど・・・。

100軒、150軒という大商店街もあって、これらの問屋街にはパチンコ屋は1軒もなかったのです。

また、パチンコ屋のある商店街でも先にあげた新宿西口の「パチンコ横町」のように、パチンコ屋が密集してはいませんでした。

しかし、当時の浅草は、戦災から立ち直り、復興の意気に燃えていて、再び東京一の盛り場として、人出もたいへんなものでした。

したがって、パチンコ屋も大店舗のものが多く、どの店も満員の盛況でした。

六区の興行街は人の波。

肩と肩とがぶつかり合うほどで、どの映画館も、軽演劇もストリップも、フル回転でした。

そういう多忙の幕あい・・・

パチンコ屋には、息抜きのいっときをチンジャラで楽しんでいるストリッパーなどの姿を、よく見受けたものです。

その賑やかだった浅草も、すっかり寂れてしまい、六区など昼間でも人影まばら。

いろいろ、復興策もあるようですが、はたしてどうなりますか。

ただ、パチンコ屋だけは盛ん。

「浅草はいいよ。よく出るんでね、四つ木から来ちゃあ、稼いでるよ」というような、客も多いようです。

パチンコ屋の客には、その土地によっていろいろな特色があるようです。

また、時代によって客筋に変化のあるのも当然でしょう。

新宿西口「パチンコ横町」 その2

店の数は、片側30軒ずつの計60軒。

そのうち、パチンコ屋は13軒。

あとの大部分は食べ物屋か飲み屋ですから、職種の比率からいってもパチンコ屋は圧倒的に多く、別称「パチンコ横町」といわれたのも、なるほどとうなずかれます。

ところが、ラーメン屋はわずか1軒。

これでは、「日本中、パチンコ、ラーメン2軒おき」とはいきません。

でも6軒の中華店を足すと7軒となり、他の職種から比べればやはり多く、"2軒おき"という感じとなりましょう。

こういうと、中華料理店が「ラーメン屋はラーメン専門。

うちらはいろいろ中華料理を出している」というかもしれませんが、当時の"中華料理店"はデ手もせいぜいギョーザぐらい・・・。

あとはラーメンが主だったのです。

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